表現の彼岸

椅子に腰掛けて、無造作に折った楽譜を開いて膝に乗せ、両腕を開く。
一息おいて、両手が宙を舞う。鍵盤はないが彼には音が聞こえているようだ。目をつぶった頭が大きく揺れる。
皆さんもご存知のグレン・グールド、を、くさやにした様なおじさん。帰りの電車。
終点で降りて信号待ちをしていると、後ろから大きな歌声が近づいてくる。先ほどのグレンさん、おうたもやるらしい。

あなたぁ〜のぉその腕で〜、わぁたしぃ〜を抱きしめて〜
ららら〜

オレの真ん前まで来て両腕を大きく開き、行き来する車に披露してらっしゃる歌は、なかなかしっかりお腹から声がでておる。合唱の先生は良く褒めるだろう。上のフレーズが終わると「んー、明日は、ニューヨーク、か。くくく」とひとりごちて、また上の歌に戻る。
信号が変わって歩き始めても歌は続く。歌に熱中するあまり歩みが止まって危ない。腕がぶつかってくるので「おっちゃん、だーから危ねえよ」と声をかけたら、ピタッと止まってこっちをみた。

グレン「すいません!!」
オイラ「ああ、いいよいいよ」
グレン「いや失礼しました。ワタクシ、日本にいないので、すいません!!」
オイラ「わかったわかった」
グレン「あの、明日ワタクシ、ニューヨークですから日本に」
オイラ「....あーっと、ちょい待ちおっちゃん、あれ、信号、変わっちゃうからホラ」
グレン「あー、これは失礼しました」(道をあける)
オイラ「早くわたれー」
グレン「明日はー!ニューヨーク!ですからー!」

歌声はずっと聞こえてたので無事渡れたらしかった。暇な若い子が集まって路上プロレスごっこをやり「ギブギブ」とかゆってるのを眺めながら徒歩帰宅。あなたーのその腕でー。