御仕様帳

こないだ、これ読んでてさ。

みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)

みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)

側の畑を潰して書斎を建てるよう大工に依頼すると、御仕様帳があがってくる。

表紙に御仕様帳と書いた半紙数枚の綴じ込みを中にして、父母は珍しく睦まじく話していた。

いいですねえ、御仕様帳。半紙数枚。おれも今度から表紙だけでもこれにしようかな。縦書きで。世界中どこにでもこれで出す。
表題のとおりな子供時代の話。凛としつつ、崩れない程度に江戸っ子な文章が実に東京的なエッセイ。幸田父母のドロドロな内情も結構書いてるのに。幸田文入門に選んでみてアタリだった。父露伴の教えもよい。

文句をいうよりまず身をもって行うこと。しかし書物を読まない者は進歩の無いばかだ

まったくで(へへへ)。


今年、オレにしちゃあ随分な量の本を読んでみて、文章ってのは本当にその人柄や背景が出るもんだなあ、と実感がわいた。もちろん難しい単語を知っているとか古い言い回しをするだけじゃない。改行の入れ方や、かなと漢字の使い分けや、「...」のような文章外の意味合いの持たせ方、などなど。どの時期、あるいはどういう趣味で文体が変わるというあたりも、なんとなく見えてきて面白い。特にWeb上の文章とかね。喧嘩したくないから捏造するとだね、その、ホンダラブログに花子さんが

彼は怒って
「それじゃ、おれ帰るから」
と言うんだけど。
でも。
あたし、本当は、わかってる。

なんて書いているのを見て、ああこれ、元をずーっと手繰ると昭和軽薄体(うわー)で、更に掘っていくとたぶん宇能鴻一郎は出てくるよなとか(笑)。こういう系統樹はアミダ状になっているものだから、例えば新井素子体などはそのアミダの別解に居るわけだが、ここであえて先生にひっぱるのはもちろん花子への悪意(笑)なので安心して欲しい。わはは。でもほら、もう上の文が宇能文体にしか見えなくなってきたでしょう。ほらほら。うーの、うーの、うーの、ウンコー(まだいうか)。
さて、前回と今回で「そんなにウンコ言う人でしたかアナタ」と思われそうですね、ネタですからネタ、幸田文の文章で東京的を感じたときに、東京云々以前にあんな端正な文章は痩せても書けないが(おれの必死の表現)、じゃあオレの文章は何的、何風なんだろうと、ちょっと考えた。
...
...
中古レコ屋で、びっしり書いてある割に内容の無いお勧めポップ。
が、浮かんで消えた。


帯日焼け800円。